「ちわ~、灰谷で~す」
「お帰り下さい」
「おいおい、つれない事言うなよな~」
いきなり帰れと言う景太郎に、はっはっはっと脳天気な笑いをあげる灰谷。
そんな灰谷に、景太郎は疲れたような溜息を吐いた…
「今日はお前に会いたくなかったよ」
「はっはっはっはっ! 毎年恒例の行事だぞ、いい加減に諦めろ」
「お前が諦めろ!」
「断る!」
「訳の解らんこと言ってないでさっさと入れ!」
「あ痛っ!」
いきなり前に倒れて顔面を強かに床に打ちつける灰谷。
その後ろには片足を上げたはるか…どうやら、尻に蹴りを入れられたようだ。
「いたたたた……」
顔面をさすりつつ起き上がる灰谷。そしてそれを補佐するラブレス。
違和感のないその二人に、一緒にいる長さと同じ事が繰り返されていることがなんとなく解る。
そんな二人を尻目に、景太郎ははるかに視線を向ける。
「それで…灰谷とラブレスは解るとして、なんで貴女がここにいるんだ?」
「この馬鹿がいきなり店に来て『バレンタインチョコ、一丁』なんて注文してきてな。
前みたいに張り倒しても良いんだが…お前の管轄だからな。とりあえず連れてきてやった」
「引き渡されても困るがな…特に今日は」
苦笑…と言うよりは嫌そうな顔をする景太郎。
それでも拒否しないところは、やはり灰谷が親友であるが故か…
それはともかく、景太郎が先程から連呼している『今日は』が気にかかるところだ。
「聞いてくれよ景太郎~」
涙目になって景太郎に泣きつく灰谷。
その様はまるで青い猫形ロボットに泣きつく少年のようだ。
「聞きたくない」
「今日はバレンタインデーだって言うのに、誰一人俺にチョコをくれないんだ~」
「だから聞きたくないって言ってるだろうが。人の話を聞け」
邪険に扱う景太郎に構わず、よよよ…と泣きながら愚痴りを止めない灰谷。
「今日という日にチョコを一つも貰えない苦しみ…お前なら俺の気持ちを解ってくれる…よ……な………」
言葉が途切れ途切れになる灰谷。その視線の先には景太郎の手元、そして前のテーブルに注がれている。
そこには、言わずとしれた景太郎へのチョコ(一つはシリウス、一つはチョコではなくカレーのルゥ)があった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁっ! こ、この野郎、景太郎の分際でチョコレート貰ってやがるぅ!!」
まるでこの世の終わりが来たかのような絶叫を上げる灰谷。
『ムン○の叫び』よろしく、両手を頬にそえてグニャグニャと身体をくねらせている。
「五月蠅い、間近で叫ぶな!」
耳を押さえながら灰谷を蹴り飛ばす景太郎。
分際云々は完全に無視だ。そんな事でいちいち相手にしていたら身が持たない。特に『今日』は……
「裏切ったな、俺達の友情を裏切ったんだな!!
俺は信じていたのに! 俺達の、”銀”のように硬い結束を!!」
「なんか、微妙に柔らかくないか?」
「…………んじゃ、”銅”でどうだ?」
「思いっきり錆びやすい『結束』だな。それにつまらん」
即座に切って捨てる景太郎に、灰谷はガバッと立ち上がると、ビシッと指を突き付ける!!
「うるせぇ! この〈恋愛幸福者〉め!!」
今度は逆切れだ。本気で目に涙を滲ませながら糾弾する。
情けないのを通り越して呆れ果てんばかりだ……
「貰えなかったからって僻むな。毎年のことだろうが」
「な…なに………」
景太郎の無惨な(ある意味、非情な)一言に、灰谷が打ちのめされたように後ろによろける……
そして転身、今度は白井の膝元に縋り付くように抱きつく!
「うわ~ん、シラえモ~ン! 景太郎がボクを虐めるんだぁ!
女の子からチョコレートを貰った奴等を糖尿病にする道具を出してよぉ~」
「誰が”シラえモン”だ! つーか、そんな道具持ってねぇよ!」
「ちゅーより、やることがせこすぎるわ」
さすがのキツネも灰谷の馬鹿さ加減に呆れ返ってしまったようだ。
「んだよ、こんな時こそポケットから道具を出したり、『こんな事もあろうかと』とか言うのが王道だろうが!」
「やかましい! 俺は猫形のロボットでもないし、真田さんでもねぇ!」
「ううう…神は俺を見捨てたか……」
「たかだかチョコレートを貰うためだけに祈られたら、邪神だって応えたくねぇって…」
床に両手をついて悲嘆にくれる灰谷に、白井は久方ぶりの脱力感を感じていた……
「なぁケータロー。あの兄ちゃんはなんでそんなにチョコがほしがっとるんや?」
「それはね、スゥちゃん。
あいつはバレンタインに、チョコを幾つ貰えるかで男の価値だと思っているからなんだよ。
その所為で、あいつは昔からこの日になると、色々と無駄な努力を惜しまなかったからね」
「あ、それ知ってる!」
挙手をしながら、由香里が景太郎の説明に合いの手を入れる。
「確か、景太郎さん達が高校一年の頃、灰谷さんが襷を掛けて校内を歩いていたんでしたよね?
確か…バレンタインチョコ、好評受付中だったかな?」
「ホンマかいな…んで? 貰えたんか?」
「えっと、結果は……」
「生活指導の筋肉ダルマに捕まって、放課後まで延々と正座させられたよ。
あの野郎、自分がもてないからって人をやっかみやがって……」
由香里の言葉を引き継いで代わりに答える灰谷。思い出し怒りで一時的に、立ち直ったみたいだ。
「おいおい、やっかむってな、それ以前にお前一つも貰ってなかっただろうが」
「馬鹿を言うな景太郎。お前だって見ただろうが、遠巻きにこちらを見つめる女子の熱い視線を!
あのまま続けていれば、一つは確実に貰えて……」
「無いだろうな。あれはただ単に引いてただけだ。あんな馬鹿なことをするから貰えないんだよ」
即座に否定する白井の言葉に、灰谷はショックを受け、部屋の隅に蹲ってのの字を書き始めた……
そんな灰谷を余所に、由香里が嬉々として話を続ける。
「えっと…それで、次の年は『募金箱』ならぬ『募チョコ箱』を持って校内を徘徊したんですよね。
『恵まれない男達に”愛”の手を』をキャッチフレーズに……」
「そうそう、去年に続いて馬鹿やってる灰谷を哀れに思ったのか、数名の女子が義理チョコをくれたんだよな」
「そして、その後すぐにまたもや筋肉ダルマに邪魔されたんだがな……」
しっかりとこちらの言葉を聞いていたのか、隅に向かって蹲ったまま、白井の言葉に返事をする灰谷。
背負っている雰囲気と同様、その声も打ちのめされたように暗く沈んでいる……
「あ、でも、その時はチョコレートを没収されなかったって聞きましたけど?」
顎に人差し指を当て、クイッと首を傾げる由香里。
そんな由香里の言葉に景太郎は苦笑しながら、当時の真相を語り始める。
「ああそれはね、こいつが『恵まれない男達』なんて題名でさ、
数名の男子生をの写真をパネル大で飾ったもんだから、その連中に襲撃にあっちゃって。
肖像権だって言って、集まったチョコを根こそぎ持っていかれたんだ」
「あららら…それはなんて言うか……」
「「超ダセェ!!」」
「うすらやかましいわ!!」
「でも貰えなかったんですよね」
「はうっ!」
景太郎と白井の揶揄にいきり立った灰谷だが、
由香里の刃のように鋭い言葉に貫かれ、またもや部屋の隅でブツブツと呟きながらいじけだす……
「それで、高校最後のバレンタインの時は―――――」
再度話を切り出す由香里。これ以上ないほど表情が活き活きしている。
こういう話が好きなのか、それともこういう状況が好きなのか。微妙に判断に苦しむ。
「放送室をジャックして、ゲリラ演説をしたんですよね。一部の男子生徒から熱い支持を受けていたとか……」
「そうそう。あの後、よくぞ言ってくれたって、感動したってわざわざ言いにきてくれてたよな」
「ああ、そうだな…またまた筋肉ダルマにとっ捕まって正座させられたときにな。
ついでに、おかげでチョコを貰えましたって言いにな…俺には一つも贈られなかったって言うのに……」
(やべっ…逆効果だ)
拙い顔になる白井。フォローするつもりの言葉が逆にトドメになってしまった。
皆の間に気まずい沈黙が流れる中、ちゃっかり景太郎の横を陣取った由香里だけがニコニコと笑っていた。
やはり、只者ではない……
―――――そんな時、
「そうだ…これならおそらく貰える…かもしれない」
「なに、なんか良い案でもあるのか!?」
妙案を思いついたらしい景太郎の言葉に食いつき、瞬時に復活を果たす灰谷。
恐ろしいまでの立ち直りの早さだが、この場合は逆に助かる。
「しかし…あまり勧められる方法じゃないんだが…」
「構わん!」
「そうか…じゃぁ言うぞ。道行く女性にこう声をかければいい。この方法はそれだけでいい」
「ふんふん…で、その言葉は?」
期待に目を輝かせ、胸を膨らませる灰谷。表情など眩いばかりだ。
だが、それとは裏腹に景太郎の顔は苦渋に満ち始めている。
まるで、冗談を言っていたのに、相手があまりにも真剣すぎて冗談だと明かせなくなってしまった…そんな顔だ。
「……それは……」
「それは?」
「……『ギブミー・チョコレート』だ。餓えた顔ならなお良いかもしれないな」
「俺は終戦時の餓えた子供か!?」
「でも、”愛”には餓えているんですよね?」
「グハッ!」
由香里のナイスつっこみ(鋭さは刃物以上)に、灰谷は胸を押さえながらその場にぱったりと倒れる。
近寄ったカオラが指先でつついているが、まるで反応がない。死んでいるようだ…精神的に。
「上手いね、篠宮さん。座布団一枚だ」
「どうも~☆」
景太郎が手渡した座布団(どこから出したかは不明)を受け取り、嬉しそうな顔で座席に敷く由香里。
そんな追い打ちが逆に蘇生になったのか、灰谷が恨みがましい顔で幽鬼のように立ち上がる……
「ちくしょう…どいつもこいつも馬鹿にしやがって…特にそこの元・自虐根暗男め……
こうなったら秘術の限りを尽くして呪ってやる……尿から甘い匂いがするような呪いをかけてやるぅ!!」
「結局そこに戻るんだな」
「やっぱせこい兄ちゃんやな……止めんでええんか? 景太郎」
「ほっといて良いですよ。灰谷の奇天烈な行動は毎年のことですから。
そもそも灰谷は『呪い』は専門外ですからね。
万が一、本当に呪いなんてかけてきたら返しますから。効果を倍にしてね」
にやぁっと笑う景太郎。
浦島流・陰陽術を独学で会得、更には技に磨きをかけているので、あながちはったりやほらではないだろうが…
糖尿病になる呪いと云うのが本当にあるのかどうかは、全くの不明だ。
まぁ、灰谷の執念や勢いを見る限り、独学で作り上げそうだが……
だがまぁ…世界は意外と優しかったらしい。灰谷に一人の女性の声が掛かった。
「ちっくしょー! フリー「あ、あの…灰谷さん?」―――――なに?」
まるで怒りのあまり金髪の超戦士になった宇宙人のような台詞(ギリギリ)の途中で正気に戻る灰谷。
怒りの中でもユーモアを忘れないその心意気はいっそ見事だ。
それはともかく…なんとか正気に戻った灰谷に、しのぶが怖ず怖ずと話しかける。
「あの…あまり良い出来じゃないので良ければ、私のを貰ってくれますか?」
「ほ、本当に―――――良いのかい!?」
「は、はい。失敗したもので悪いんですけど…」
「あ、ありがとう! 本当にありがとう!!」
灰谷は滂沱の如く感激の涙を流しながら、しのぶの手をとって何度も礼を述べた……
―――――そして数分後―――――
「そ、それではどうぞ……」
「あ、ありがとう」
即席のバレンタインチョコをしのぶから恭しく受け取る灰谷。
まるで純情な青年が、意中の人からプレゼントを受け取ったかのようなしおらしさ……
どうやら、嬉しさのあまりにいつものテンションを保てないようだ。
「なぁ景太郎」
「なんだよ、白井」
「あれ見ろ、あれ……」
小さな声で注意を促す白井に、景太郎が何事かとそちらに視線を向け…顔を引きつらせた。
正確には、口のはしを引きつらせただけなのだが…多少のことでは動じない彼にしては非常に珍しい表情だ。
「あれは……かなりきてるか?」
「きてるな…たぶん〈怒り〉モードだ。全開かどうかは知らないが…な」
白井も同じく…こちらはありありと…顔を引きつらせてる。
そんな二人の視線の先は、チョコを貰って喜んでいる灰谷…を通り過ぎて、
終始、馬鹿騒ぎに加わることもなく、静かに佇み傍観に徹していたラブレスだった。
その顔は無表情。最初からまるで変化がないようにしか見えないのだが…
つき合いが十年近い景太郎と灰谷には、ラブレスの心情が多少なりとも解るらしい。
「あれは…かなりきてるな」
「ああ。たぶんとばっちりはこないと思うが…暫く灰谷への対応は悪くなるだろうな」
景太郎の言葉を肯定し、さらにはこれからのことを予測する白井。
過去の経験からすると、この後、怒りを内に秘めたラブレスが灰谷に冷たく当たり、
その事で自分達に泣きついてくる…のが妥当だ。『最近ラブレスが冷たいんだよ~』とか言って…
奥さんに冷たくされた旦那さんの如く……恥も外聞もないから厄介だ。
「はっはっはっはっ! 始めて人間の女性に貰ったぞ~!」
「おいおい…自分の母親は人間じゃないってか?」
「俺は景太郎に格闘技で勝てるヤツを人間とは認めん!」
「おいこら。さらりと俺を人外判定に使うな。って言うか、十年前のことをまだ引っぱるか」
「なら、お前は今現在、百パーセント勝てると言えるか?
言っとくが、技はあの頃よりも冴えてるぜ? レパートリーもなにげに増えてるしよ」
「知ってるよ。一時期は師事してたんだからな。だが…そうだな、今なら勝率は九割超えると思うぞ」
それは逆に言えば、負ける可能性が一割未満はあるという事だ。
この景太郎が絶対に勝てると言いきらない相手…それも、一時期は師事していたという事実。
失礼かもしれないが、これだけでひなた荘のメンバーが灰谷・母を人外に感じても致し方ないことだろう。
「それじゃぁ、俺そろそろ帰るわ!
早く帰って『どうせ今年も貰えない』とかぬかしやがった親共を見返したいからな!」
喜び勇んで…と言うよりは、狂喜乱舞と言った方が近い…灰谷は小躍りしながらひなた荘を去り、
その後を、冷たい表情のラブレスが付いていった。
去り際に、律義に全員に向かってお辞儀して言ったその姿は、いたらない主に代わって…と言うよりは、
馬鹿な亭主の尻拭いをしている賢妻のようにな印象を皆に与えていた。
そんな二人組を見送った後、由香里の…
「灰谷さんって…チョコレートを貰いに来ただけ?」
と云う言葉を、景太郎と白井の友人二人を含め、この場にいる皆は誰一人として否定できなかった……
「あはははは! あたしが予備校に行っていた間にそんな事があったの」
夜―――――成瀬川の部屋で、景太郎がなるに勉強を教えていた途中、
休憩のついでに、今日の馬鹿騒ぎについて話しをしていた。
「あたしも、その篠宮さんって人に会ってみたかったかも」
「勘弁してくれ」
苦笑いというか、少々困った顔をする景太郎に、なるはまた笑い声をあげた。
いつもどこか達観しているような景太郎がこんな弱っている姿など、そうそう見られるものではない。
「でもさ、その篠宮さん。よく帰ったわね」
「それは…向こうに家があるし、学校も……」
「あんた以前言ってたじゃない。篠宮さんなら此処に住み着きかねないって……」
「まぁ、それは確かに……」
数時間前…日がそろそろ暮れようかという時間帯になると、由香里は意外に素直に帰っていった。
あまりにも呆気ない帰省に、逆に景太郎が不安を覚えるほどだった。
本人曰く、『無理矢理押し掛けるのも良いけど、それで景太郎さんの迷惑になるのは嫌だし』だそうだ。
自分の領域に無理矢理上がってくるのを嫌う景太郎を良く理解した行動と言える。
ただ……邪推なだけかも知れないのだが、
こうやって徐々に景太郎との距離を縮め、間合いに入ったところを一気に…と、思ってしまうのはなぜだろうか。
ちなみに、由香里が帰る前に景太郎が、なぜ居場所が判ったのか? を聞くと、
その返事は、『景太郎さんのよく知っている子に聞いた』であった。
その一言で…景太郎は全てを悟った。
「じゃ、ついでだから私のもあげるわ。一応、世話になってるしね」
なるはそう言うと、掌に乗るぐらいの小さな箱を景太郎に手渡した。
綺麗にラッピングされた箱…中身は無論チョコレートだ。
ただ、中身が外見ほど綺麗に整っているのかどうかは判別不明だ……
「言っとくけど義理だからね。義理」
「そう念を押さなくても十二分に解っているよ」
「なら良いけどね」
解ったと言う景太郎に、やや不機嫌そうな顔になる成瀬川。
どうしてそんな顔になるかは不明…にしておこう。
「でも良かったわね、本命を貰えて」
「あれを貰って『良かった』と言えるのなら、そいつはある意味大者だと思うがな……」
婚姻届に包まれたチョコレートを思い出してややげんなりする景太郎。
その婚姻届は由香里が帰ると同時に即刻焼却処分した。
「どうせ、今まで本命なんて貰ったこと無いんでしょ」
「いや」
「嘘! あるの!?」
驚愕の表情になる成瀬川。心底信じられないと云った感じだ。
思いっきり失礼なのだが、当人は驚きのあまりに気付いてすらいない。
そんな成瀬川の表情に、景太郎は達観したような苦笑いを浮かべ、
「ま、それが普通の反応だろうな」
と、言葉を返した。
それにより正気に戻った成瀬川はばつが悪いと云った感じの顔をした後、
興味の光を瞳に秘めながら、景太郎に質問をし始めた。
「ご、ごめん…でも、一体誰なの? あんたに本命を渡すような気の毒な…もとい、奇特な人って?」
「それはフォローのつもりか?」
なるのあまりな言葉に軽く睨む景太郎。
これが『始めて本命をくれた女性の妹」でなければ、即刻張り倒していたところだ。
「さぁ、もう残りの日数は少ないんだ。馬鹿なことを言ってないで勉強に集中しろ」
「なによ、教えてくれたって良いじゃない…ケチ」
「何か言ったか?」
「別に……」
なるは少し拗ねたようにそう言うと、再び前に向かって参考書に取り掛かり始めた。
そんななるを…景太郎は優しい瞳で見守っていた……
そして更に数時間後……今日と云う日が終わるまで、残り僅かという時間帯…
自室にて、景太郎が常備している暗器(手裏剣、苦無など)を手入れをしていた。
―――――そんな時、
不意に顔を上げると、静かに立ち上がって窓を開けた―――――その直後!!
―――――ッ!!
白い何かが開かれた窓から部屋の中へと飛び込んできた!
その何かは閃光のように凄まじく速く、瞬きのしようによっては見過ごしていたかもしれない程だ。
そして―――――その何かは部屋の中心に静かに鎮座し、部屋の主たる景太郎に頭を垂れていた。
その何かは犬…いや、その気高き風格、孤高の王者たる雰囲気から、狼だと理解できる。
それも白く美しい毛並みを持つ、かなり大型の…だ。
ただ座っているだけでも美しさを感じさせる…のだが、背負っているリュックが微妙にミスマッチだ。
「お帰り、シリウス」
『ただいま…戻りました』
白き狼…シリウスは、一礼と共に返事を返す。
と言っても口から発した言葉ではない。心に直接聞こえる”念話”の様なものだ。
「それで、操さんは何の用事だったんだ?」
『去年と同じです…』
「やっぱりそうだったのか。わざわざ済まないな」
『いえ…操殿にこそ…そうお伝え下さい』
「ああ、わかった」
そんな会話をしつつ、シリウスが背負っていたリュックを外し、中身を取り出す景太郎。
リュックの中身は、風呂敷に包まれた長方形の箱だった。
景太郎が丁寧に風呂敷を解き、箱を開けるとそこにはお萩が入っていた。
仕切りをしているため、中身が乱れているようなことはない。
一つ一つ手作りで…内包すら手間ひまかけていることが一目で解った。
「うん。やっぱり美味しいな」
一つ手に取り、美味しそうに食べる景太郎。
これが、操からのバレンタインチョコ…の代わりだった。
和菓子が好きな景太郎を知る操は、毎年チョコレートの代わりにお萩を作っているのだ。
景太郎自身、洋菓子よりも和菓子が好きなことは誰にも言っていない。
それを口にすると、和菓子屋の一面を持つ浦島のことを連想してしまうからだ。
だが…操だけは、誰に聞くこともなく、景太郎の好みを理解し、和菓子を贈った。
浦島云々は関係なく、ただ純粋に景太郎が和菓子が好きだから…と云う理由で。
だからこそ…普段は和菓子を口にしない景太郎も、操の作ったお萩だけはなんの気兼ねもなく食べるのだろう。
「シリウス。お前もどうだ?」
「いえ…それは主の為のものですので……」
「そんな事はないぞ」
箱と一緒に入っていた一通の手紙…それをシリウスに見えるように広げた。
そこには、シリウスに頼んでお萩を運んでもらった事への御礼と、神凪の近状報告。
急な用事が入ったためそちらに行けず、本当なら直接手渡したかった…と言う言葉。
そして最後に、『よろしければ皆様も御一緒にどうぞ』と書かれてあった。
「美味しいぞ」
『……やはり遠慮しておきます』
「そうか? まぁ無理強いはしないが…これは受け取れ」
そう言うと、景太郎は机の上に置いてあった小さな箱…七瀬からシリウスへのチョコを投げた。
シリウスは投げられた箱をパクッとくわえて受け取る。
『これは…洋菓子と…主の天敵に匂い? それとその側に居る娘の……』
「天敵と言うな、天敵と…ちょっと苦手なだけだ。それと、それは久遠さんからだ。
篠宮さんが持ってきてくれたからな。匂いが移ったんだろう」
『やはり…』
「なんでも、お前に助けられた礼…だそうだ」
『助けた? ああ、あのうつけ者から護れと主に言われた時の……』
「そうらしい」
『………………』
シリウスは箱を床に置く景太郎は箱の包みを解き、中身を出した。
中には一口サイズの小さなチョコレート。食事をしないシリウスの事を考えたサイズだ。
出されたチョコを暫く嗅いだ後…パクッと食べた。
「美味いか?」
『なんとも……』
「ははは、そうか。それはそうと、みんなはどうだ?」
『遠慮する』
『馬が蹴られては冗談にもならん』
『肉はねぇのか? 肉!』
何処からか聞こえる声。シリウスと同じく、空気を震わせる声ではなく”念話”だ。
声はすれど姿は在らず。しかし、景太郎は至極当然と云った表情で苦笑していた。
「アルタイル、遠慮は要らないんだぞ? フレイも……それとアグニ、いくらなんでも肉はないぞ」
『我らは本来食事は入らんしの…やはり遠慮しておく』
『私も…』
『俺もそうだが…まぁ、旦那の使い魔になるまでの生態が生態だしな』
「それもそうだな」
無理強いすることも、されることも好かない景太郎は、あっさりと考えを下げる。
どうしようもない場合は力ずくでも行うが、それ以外は基本的に相手の意思を尊重する。
……とまぁ、そう言えば聞こえは良いが……
数年前まで自分の事だけに必死だったため、他人に干渉せず無視していた…と云うのが真実だったりする。
『主』
「ん? なんだ、シリウス」
『主は少し変わりました……』
「そうか? 宗主とかにも言われたが…お前がそう言うのなら、そうなんだろうな……」
『はい……』
その言葉に、暫く考え込むように沈黙する景太郎。
中天にかかる満月を見上げつつ、傍らのお萩を一つ、また一つと食している。
「お前達は…今の俺が嫌いか?」
『いえ……我は言い変化だと思います……』
『良いのではないか? 儂はそう思うが……』
『主は主……私にとって、それが全て』
『まぁ、なんだ。良いんじゃねぇのか? 本質は変わってねぇんだし』
「ありがとう…こんな俺に付いてきてくれて……」
聞こえてくる四つの声に偽りはない。
その事に、景太郎は短い礼を述べると共に、本当に嬉しそうな笑みを見せていた。
滅多に見ない…極々親しい数名しか見たことのない、本当の微笑みを………
それを見ていたのは…姿を現しているシリウスと、空に浮かんだ満月しかいなかった……
―――――追記・その一―――――
次の日の早朝…まだ日も昇らぬ程早くに、
灰谷がラブレス他、四名の使い魔からチョコレートを貰ったと言ってひなた荘に来て騒ぎを起こした。
そして、直後に『朝から騒ぐな!』と言う名言と共に景太郎に張り倒され、
簀巻きにされて軒先に吊された……自業自得である。
―――――追記・その二―――――
後日、景太郎が神凪宗家に電話した際、弟のように思っている者からの会話を抜粋する。
「煉君、大変なことをしてくれたね…俺は絶対に許さないよ」
「誤解ですよ、ボクはそんな事していません!!」
「俺は悲しいよ、煉君…約束を破るなんて。悲しすぎて綾乃さんについうっかりあの事を言いそうだよ…」
「本当なんです! 信じて下さいよ~」
最後の方は半泣きになっていたそうな………
―――――追記・その三―――――
今度も、ある男女の電話による会話の一部を抜粋する。
「あっちはどうだった?」
「なかなか良い所でしたよ。夫婦で住むには最適ですね」
「ああそうかい。それは頑張るんだな」
「はい。それはそうと、良いんですか?
誰から聞いたって言われた時、一応言われていた通りに答えたんですけど…煉君に恨まれますよ?」
「ああ、あいつもそろそろ大人の汚いところを知っておかないとな。教育の一環だ」
「なかなか良い教育方法ですね」
「だろ?」
等と、景太郎と煉が聞けば怒りかねないことをぬけぬけと言っていた……
つまり、景太郎の居場所を密告したのは和麻だったのだ。
その事を景太郎が知るのは……まだ随分と暫く先のことだった…………
―――――関灯・第二…終了―――――
―――――あとがき―――――
どうも、ケインです。今回はヴァレンタイン…のネタでした。
最初のうんちく擬きは気にしないで下さい。弟の怪しい知識ですから。
それはともかく…とうとう『篠宮 由香里』嬢が登場しました。
今回はいまいち押しが弱かったかな? と思いますが…まぁ、こんな程度で。
本編にあるとおり、景太郎に嫌がられないよう、じわりじわりと間合いをつめているんです。
ある程度近づいたら、一気にレッドゾーンを跳び超えそうですけどね……
『久遠 七瀬』嬢も名前だけ登場です。こちらはそれほど押しも強くないです。
そして最後の操からのチョコ代わりのお萩…一度食べてみたいと思うのは、私だけではないと思います。
意外と操ファンの方が居たりしまして…その方々、聖痕編を楽しみに待っててください。
操の出番が結構多い……予定です。いや、本当に……
それよりも、本編でまともに初登場した『シリウス』……操のお萩よりも目立ってしまったような……
それと、後の三匹も声(思念?)だけの登場。姿はまたいずれ登場しますので。
ちなみに、以前鶴子と戦った際、彰人を足止めしていたのはシリウスを初めとする四匹です。
こんな所で登場させるのもなんだかな~っと思ったんですけどね…
さて、それでは…次回は外灯。景太郎の過去です。
前回のあとがきにも書いたとおり、約四年前です。
よろしければ読んでやってください。
それでは……